晴天の霹靂であった。難病の宣告は、私を打ち砕いた。難病即死という図式は現実のものとして毎日迫っ てきて、私を身動きできない状態にした。もともと弱虫で臆病な性格だったが、時間の経過とあいまってた だひたすら怯えるだけになってしまったのだ。
何をするにしても「俺は難病だ」という思いが離れず、結果、何もできないという状態が続いた。気持ち 気分は今まで経験したことがない程落ち込み、鬱々とした日が無意味に流れていった。先日、NHKのTV でジョー・フォアマンが四十五歳で世界チャンピオンになる伝記的な放送を見た。その中にカシアス・クレ イが好敵手として登場したが、典型的なパーキンソン病患者であった。無表情の仮面の様な顔、ぎこちなく そして硬直した体、しかも左手の振戦は止まる気配はなかった。「蝶のように舞い蜂のように刺す」といっ たボクサーの面影はどこにも見られなかった。段々に悪化していく病の一面を印象付けられた。
自暴自棄の日と諦めの日が交互に続いているうち、ふと考えが涌きあがってきた。自分の人生は一体何だ ったのだろう。ただひたすら儲けのために動き回り、自分勝手な満足感の追及だけで生きてきた。これで良 かったのだろうか。「そうだ世の中に何かを残そう」「ボランティアをやろう」これしかない。今、考えて も不明なのだが、何故、こんな短絡な結論を出したのか、やはり思考が変になってしまっていたのであろう 。数日、飛び回った末、公共の協会が飯田橋の駅ビルの最上階にあるのが解った。電話をした。年齢、健康 特技、趣味等聞かれ、明日、面接に来るように言われた。その間、私のうわづった応答の調子に係員の迷惑 そうな気配が伝わってきた。家内は、この騒動をまた黙ってみていたが、私が明日の面接を告げると、初め て口を開いた。
「私は貴方がボランティアをやる事に反対はしません。ですが、今やるのは賛成しかねます。病気から逃 げるために、まるで地獄で蜘蛛の糸に縋り付いて悲鳴をあげている亡者のように見えます。そんなものは見 たくありません。今、一番大事なことは、病気と真正面から対峙する事ではないでしょうか。また、今の仕 事はどうするのですか。貴方は「ヤメタ」でいいでしょうが、関連する方々は生活が掛かっています。後継 者を含めてどうするのかキチッとしてからなら、私と子供達は応援しますが、今は駄目です。」私は解った と小さく頷き、そしてうなだれてしまった。腑抜けになった私は、難病に対する怖さの震えと「アイツ」の 起こす震えが一緒になって曖昧模糊(あいまいもこ)となり、何がなんだか解らなくなってしまった。
薬は効いていた。かつて健康だった時の八十パーセント位でしょうか。滑らかな動きが戻ってきた。ただ 薬による人工的な動きであるから、ある違和感を覚えての行動であるのはしょうがなかった。副作用も微弱 だが、頭がしびれるという形で現れた。病院の先生は衝撃を受けた私をいつも励ましてくれ、「小池さん、 この病気で良かったのですよ。薬があるからです。薬がない人を思ってみてください。大変なんですよ。薬 の調整をうまくすれば、天寿を全うできますよ。それから貴方の年齢に五年から十年足してください。老化 が早く始まったと思って安全に気を付けて生活をしてください。」診察を受けるたびに励ましてくれた。
仕事にも嫌々戻った。日々が進んでいった。家内は図書館、書店を歩き、この病気の本を探し、治療の知 識と共に難病の組織がある事を知った。早速、西新宿にある障害者センターに出掛けた。八王子の会長さん に連絡をとり、三人程の方を紹介経由して、練馬区の新井亨さんに文字通り辿りついた。以後、私にとって 運命的な日々が始まるとは、神ならぬ身の知る由もその時は解らなかった。「毎月の第四土曜日に例会があ ります。出席してください。その時が、入会になるでしょう。」まことに明晰、明解な新井さんの言葉であ った。私と家内は、友の会に初めて出掛けた。
1995/3
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目 次
難病・パーキンソン病との出逢い
難病・パーキンソン病との出逢い・・・混沌
パーキンソン病との出逢い・・・沈静
『歯』(前編)
『歯』(後編)
睡眠・そしてウツ