草仏教の趣旨

  私は草野球が好きだ。まず、草という響きがいい。仏教も、草仏教でいきたい。
 京都から、新潟県への転校生だった私は、毎日、放課後に草野球をやることで
 地域に活着(かっちゃく)し、友人というものをつくっていった。

 ある時、ふと思った。多くの人が関係している仏教というものにも、草仏教とプロ仏教
 があるのではないだろうか。これは従来は出家と在家として分けられてきたものだが、
 元々そうした分け方に疑問があったことはもちろん、純粋な意味での「出家」というもの
 が、現在、どれくらいあるのだろうか。ましてや、インターネットでホームページなどという
 ものを作る時に、その分け方に意味があるだろうか。

 私が感じるのは草仏教とプロ仏教があるということだ。草仏教は、これは私の造語に
 過ぎず、まだ上手く定義することはできないが、

   1、仏教聖典でないはずのものに、仏教聖典と同じ味わいを感じるもの

   2、仏教などは自分は関係ないと思っていたのに、深く関係していたもの

   3、気持ちさえあれば、能力、知力、体力、財力と関係なく参加できうるもの

 などを感じ、それを、いわばこの「動く学習ノート」を通じてあきらかにしていきたい。



 『フィールド・オブ・ドリームス』という小説・および野球映画があった。
 主人公はトウモロコシ農家である日、「それを作れば彼が来る」という言葉を
 啓示的に聞く。彼は「何を作ればいいのか」を探す旅に出て、それは野球場で
 あったことを知る。その野球場に、主人公が少年時代のヒーローだった人々
 が幻想的に集い、野球を楽しむ。ただ、それらの野球選手が「彼」ではなく、
 (映画の方では)最後にやってきたのは、主人公がわだかまりをもちつつ、もっとも
 会いたい一人の男だった。その男と、彼はその場でキャッチ・ボールをする。

  そう、このホームページを通じて、私も、そういう一人に出会いたい。

                        (2003年12月17日 マーヒー加藤)



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