ここだけの話 発展途上のスキーヤー

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(はじめに)
発想は自由であれ!
既成概念=こうやらなければ=誰が決めたの??
「愛と勇気」
2006.7.7 上歌の炭鉱の子(やまのこ)

歌志内で生まれた。上歌(かみうた)という地区で、月見町(つきみちょう)という高台。そこから本町へ下ると、元ナショナルチームの伊藤政照くん兄弟がいたのだが、当時はまだ知らない、というか、まだ生まれてなかったかも・・・。

小学校に上がる前、スキーが欲しくて、親にねだった。まだ、バックルの付いた靴は存在せず、ひもで編み上げる靴。大人は皮製だったが、子どもはゴム製。「ひもで編み上げるには力が無くて、まだ無理だ」と父親にたしなめられたが、「自分でするから」と初めて自己主張をし、結局買ってもらった。アジアスキーの単板のスキーだった。

炭鉱街の様子は1977年に上映された映画「幸せの黄色いハンカチ」(撮影:夕張市)の風景に近い。また、1984年倉本聰脚本によるTVドラマ「昨日、悲別で」の舞台になった「悲別ロマン座」(参考:藤上 匠さんのサイトに写真がありました)は、ガメラやゴジラや大魔神や・・・たまに映画が上映される上歌の会館だった。

炭鉱の各町には無料の銭湯があった。月見町にも。当時父はSAJの2級を持っていた。そして大人たちは、銭湯横の斜面の木に裸電球を連ねて、ナイターゲレンデを作ってしまった。小学校に上がる前の私も、父に連れられて良く滑ったことを覚えている。(政照くんも子どもの時にここで滑った、と言ってましたね。)

新雪が積もると、皆で横にならび、雪を踏みしめながら登っていくと出来上がる「ピステバーン」。
スキーでの遊びは誰が考えたのか、呼び名は忘れたが、「デモンストレーション」のゲームだった。親を決め、親が滑ったとおりに皆が滑るゲーム。親は皆ができないだろうというリズム(シュプール)で滑る。そのシュプールを追う。全員できたら親の負け、列の最後に並ぶ。この時代から「まねる」ということが始まったのかもしれない・・・。

40シーズン目の終わり頃、親父が逝ってしまった。
初盆には故郷の空気に触れたいと思っている。
月見町の畑を耕していると、巻貝の化石がいくつも見つかっていたことを思い出す・・・。



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