最適な「解」を求めるために情報収集につとめた。
そして進路を「新潟県」にとった。
北海道に行ける空港が近くにある。
東京に行こうと思ったら新幹線で日帰りができる。
壁にぶつかった時にそれを乗り越える術をスキーから学んだことまで「無」にすることには「勇気」がなかった。
仕事はスキーウエアの研究所に勤務することになった。7万人の地方都市で誰一人として知る人はいない、そんな環境であった。まだインターネットは無い時代である。近くにスキー場があることは道路マップで知った。(後にそのスキー学校の方々が暖かく迎えてくださったことが今の自分を支えている。感謝!)
スキー連盟のナショナルチームのウエアが一社で請負制になった初回(1992年)、P社のウエアにはとても驚いた。
「むら染め」という柄で、同じウエアなのに一人一人微妙に違うのだ。
こんなの見たことなかった。
新しい事にチャレンジする企業であると映った。
そんな人たちと一緒に仕事ができたらと思い、門をたたいた。
当時の東京本社の会長は戦前の「美津濃」に勤められていて、東京都のスキークラブに所属され、赤城高原へのスキー行に熱中されていたそうだ。そこで猪谷千春さん親子と出会うのである。そして成長した猪谷千春さんをスター生命の会長に引き合わせアメリカ留学のきっかけを築いたり、志賀高原の開発に携わったりと、スキー界の発展に多大な貢献をされた方である。詳しくは日本経済新聞の連載コラムに掲載された内容をご覧ください。
そんな方々と一緒に上海へ出張に行ったこともあった。そして8年目に会社を去る決意をするのである。
駄目なものはだめで、許せないのは許せないのである。
そしてまた難しい道を選択してしまうのであった。