1_5.父が脳血栓で倒れる
 2月の夜中の寒い日の出来事でした。ドタンと大きな音がしたので、何事かと思い父の部屋の方に行って見ると、廊下で父が倒れているので「おじいさん、どうしたの」と尋ねたら、小さな声で「オシッコに行こうと思ったら、急に倒れてしまった」とのこと。抱きかかえトイレで用を済ませ、その夜はそのまま寝かし翌朝病院に行き、診察の結果、脳血栓との事でした。その時はそれほど悪くはなかったのですが、日増しに病状が悪化し歩く事もままならず、座椅子に座りきりになってしまいました。食事は何とか自分で出来ました。朝の着替えはおばあさんが手を貸してやりましたが、お風呂は自分が入れ、一般家庭ではみられない、父との裸の付き合いが始まりました。これが自分に出来るせめてもの親孝行だと思い、精一杯勤めましたが、その後は良くなる訳でもなく、悪くなる訳でもなく、小康状態が長く続きました。

 長男が高校、次男が中学生になった時期から、私にとっては試練の始まりでした。妻はこの頃は薬も良く効き、動きは遅いながら、何とか一日一日を精一杯頑張っていましたが、朝は薬が効くまで起きられないので(起床8時)自分が6時に起き弁当を作り、長男を起こし朝食を食べさせ学校に送りだし、7時に次男を起こし朝食を食べさせ、中学に通わせ、1時間ほどテレビを見ながら休憩し、父母と妻の食事を作り私と4人で食事をし、9時に厨房に入り仕事を始めました。

 母は父が倒れ、嫁が難病に罹り「私が頑張らねば烱雄(私)が可哀相だ」と言い、老骨(80歳)にムチ打ち私の仕事を手伝ってくれました。母にとっては幾許もない余生を、気ままに老後を楽しみたかったでしょうに、人生の巡り合わせの非情さに虐げられたと思います。それからは今までに増して仕事をしてくれましたが、父の面倒は母が高齢のため出来ず、私が一切見ました。

 病知らずの気丈な母ゆえに、妻との心の溝は深まる一方で「敬子(妻)の顔を見るのもいやだ。気がクシャクシャしちゃう」などと言い、妻との会話が殆どなくなりましたが、心の底では「難病に罹り可哀相」だと思っていたのでしょうか、私と買い物に行った時など「こないだ敬子が下着の古いのを着ていたから、これを買って行こう」とか「これは敬子が好きだから、持って行ってやろう」などと言い、普段誰にも見せない一面をさらけだす事もあり、家族円満に暮らせるよう、心配りをしていた事がうかがえました。

 子供達は大学、高校と進学し、今度はお金を工面するのに大変苦労しました。幸いな事に、子供達2人が卒業生を代表して、男女1名ずつの学力優秀体育功労賞を頂いて、奨学金が支給されましたので非常に助かりました。

 長男は千葉の国際武道大学に、4年間下宿をしていたので世話はかかりませんでした。次男は都立立川高校に進学、また弁当を作り学校に送り出す日々が続き2年たちました。